歴史散策コース(南東コース)
武蔵村山市は武蔵野台地に島のように存在する狭山丘陵の南麓に位置し、市域には丘陵によって育まれた豊かな自然と人々の暮らしが織りなす歴史と文化があります。こうした地域の歴史や文化を伝えるかけがえのない貴重な財産である文化財を保護・保存することの大切さをより多くの人々に広める一貫として「むさしむらやま歴史散策コース」は設定されました。
当初の設定から約40年が経過し、道路状況等の変化などから既存の市北部地域の東と西のコースについて、それぞれ1コースだったものを、東を3コース、西を2コースに再編しました。また、新たに市南部地域に南東コースと南西コースの2コースを設定し、全7コースになりました。
各コースの詳細なルート図については、歴史民俗資料館本館、市政情報コーナー(市役所1階)で販売しています。
(令和3年3月発行、A4判、20ページ、200円)
南東コース(7ポイント)の概要
市南東部の戦争遺跡などを巡るこのコースは、延長約3.1キロメートル、徒歩で約40分のコースです。
7ポイントの順路は以下の通りです。
南東(1)高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地土塁【こうしゃほうだいななれんたい(とうぶだいななじゅうはちぶたい)じんえいちどるい】
学園4-5
高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地境界の土塁は、陣営地の周囲に築かれ、その断面からは、もともと東南への傾斜地であった敷地を平らにならした状況が確認できます。また、土塁が残るさいかち公園付近には、射撃場や土塁とは別に10メートルほど高い土手に囲まれた火薬庫(弾薬庫)が設置されていました。
南東(2)高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)鉄塔基礎跡【こうしゃほうだいななれんたい(とうぶだいななじゅうはちぶたい)てっとうきそあと】
学園4-4
高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地内に設置されていた、4本あった鉄塔の跡地のひとつ。敷地中央に建てられた高さ30メートルの鉄塔4本にはワイヤーが張られ、模型飛行機を吊るして高射砲の照準訓練が行われていました。
南東(3)高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)正門跡【こうしゃほうだいななれんたい(とうぶだいななじゅうはちぶたい)せいもんあと】
学園2
高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)は、昭和14年(1939)に部隊を新設され、翌年には村山村(学園地区)の陣営地へ兵舎や営庭のほか、トラックの運転練習場などが設置されました。
その後、昭和18年(1943)5月に高射砲第七連隊は解体され、この陣営地は同年9月に少年飛行兵短期制度(乙種制度)を行う所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の教育訓練施設として転用されました。
南東(4)村山陸軍病院正門跡【むらやまりくぐんびょういんせいもんあと】
学園5
昭和16年(1941)4月に近衛師団隷下の病院として開設。外科棟・内科棟・手術棟・伝染病棟が設置され、隣接する高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊や東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)、そのほか陸軍航空整備学校第二教育隊(立川陸軍航空整備学校(福生市))、東京陸軍少年通信兵学校(東村山市)などの傷病兵を収容しました。
南東(5)江戸街道【えどかいどう】
市内を東西に通る江戸街道は、昭和20年(1945)に軍備拡張のため所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の敷地を拡張した際に街道の一部が寸断されましが、戦況悪化によって敷地は穀物の栽培地として転用されました。
戦後、拡張された敷地は農地改革で農家へ払い下げられ、昭和42年(1967)にもとの街道筋へと整備されました。
南東(6)東京陸軍航空学校練兵場跡地【とうきょうりくぐんこうくうがっこうれんぺいじょうあとち】
東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)は、少年航空兵(少年飛行兵)へ1年間の基礎教育を行う施設で、普通学(国語作文・数学・歴史・理科・図画・英語(後に廃止))と軍事学を学び、教練・体操(フープ体操・マット体操・デンマーク体操)・剣術訓練を行っていました。また練兵場では、エンジンやプロペラといった動力装置が搭載されていない初歩操縦用グライダーを使用した訓練も行われていました。
南東(7)東京陸軍航空学校西通用門跡【とうきょうりくぐんこうくうがっこうにしつうようもんあと】
東京陸軍航空学校は、村山村(大南地区)にあった立川小爆撃場地を転用して昭和13年(1938)に開設され、昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改称されました。敷地内には生徒舎や生徒自習室をはじめ、各分野の学科講堂、剣道場、練兵場などが設置され、南にある正門のほか、北に4カ所と東西に1カ所ずつ通用門が設置されていました。終戦後、学校施設の解体に伴い、正門や通用門も同時に解体されましたが、東通用門の門柱は市内にある禅昌寺(西2コース)境内に移設されています。
歴史民俗資料館分館【れきしみんぞくしりょうかんぶんかん】
大南3-5-7
東京陸軍少年飛行兵学校跡地の一角に、戦争の悲惨さ、平和の尊さについて学ぶ場として平成28年9月に開館しました。これまでに市に寄贈された戦争関連資料や当時の様子を伝える記録類をもとに、戦時中の市域や人々の生活の様子の一端を紹介しています。
揺籃之地碑【ようらんのちひ】
大南3-29-6
昭和38年(1963)、東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡地の一角に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が建てられましたが、平成2年(1990)に周囲の宅地開発によって慰霊碑は禅昌寺へと移されました。同年10月、その跡地へ揺籃之地碑が建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、東航正門跡碑とともに市の旧跡に指定されています。
東航正門跡碑【とうこうせいもんあとひ】
大南3-138
東京陸軍航空学校(略称:東航。後の東京陸軍少年飛行兵学校)が開校し、第6期生から20期生までの18,000余名の生徒が少年航空兵(少年飛行兵)の基礎教育訓練を受けました。基礎教育訓練を終えた1年後には上級教育(操縦・整備・通信)学校へ進学し、その後陸軍兵士となった生徒の約4,500名が戦争の犠牲となったことを後世へ伝えるため、平成11年(1999)4月に建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、揺籃之地碑とともに市の旧跡に指定されています。
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